七夕といえばむしたけさんのこの歌。まだ7月3日ですが、フライングしちゃうほど好き。誰か短歌女子がツイートしてくれる前に熱烈おっさんふぁぼで、むしたけさんごめんなさい。短歌女子の方、別途よろしくお願いします。
でもほんとに好きなんですよぅー。 ←うざい
「書いちゃって」のなんちゃって感とかね、「最強」の小学生感とかね、部分部分はコミカルで、そしてそれゆえに、ノスタルジーが怒涛のつっぱりのように押し寄せてくる。
うん、最強だったね。海パン一丁の彦星が、天の川ビッグウェーブにノリノリの時代だったね。願えば叶うって、微塵の疑いもなかった、あの頃。
もう今は、たとえ笹や短冊があっても、恥ずかしくて願いが書けないちっこい大人になってしまいました。
あ、でも、ふと思ったんですが、そういえば私、短歌のかたちで、七夕の短冊に書くようなことをいっぱい書いてるかも。いやこれボクの願いじゃなくて作中主体さんの願いですよ、だから恥ずかしくないですよ。へっへーん。みたいな(^^; 気がつけば毎日七夕の湯呑さんでした。だから短歌って好き。
実は今、先日手に入れたうううう「うたつかい」7月号の紹介記事を書きたいいいいい禁断症状まっさかりですが、
全国の皆さんにはだいたい今ごろ届いたばかりで、これから読まれる方も多いと思うのでもうしばらくガマンです。うわぁこんなふうに書くとボクうたつかい編集の人みたいうひひひひ。
(※製本作業にちょこっと混ぜてもらっただけでこんなに舞い上がってますそっとしといて下さい)
というわけで今回はちょっと番外編。
私の好きな歌の中で、ある種の共通項がある歌をまとめて紹介する「勝手にカテゴライズ」その1です。
今回の三首に共通するのは「文法的におかしい」こと。もちろんどの作者も、あえてやっています。
あえて変な文法を使うことでひっかかりを作って、読者はそれにひっかかってテコの原理(?)でぴゅーんと感動の彼方へ。これが詩的飛躍というやつか。(※ちがう)
この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい (笹井宏之)
この歌は当「あるあるのうた」開設初期にも一度紹介していますが、1日3アクセスの時代(うち2アクセスは自分)で誰も知らないと思うのでもう一度。
「まちがえて〜(し)たい」という控えめな、でもちょっとだけちょっとだけドヤ顔な感じが、なんともいえないほんわかした気持ちにさせてくれます。しかしこの文法、私だったら20回生まれ変わっても思いつかなさそう…。
三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった (平岡直子)
この歌、実はたたさんのブログ「たたたん、たたたん、たた短歌」で見つけました(つまり孫引きです…ごめんなさい)。たたさん素敵な歌を教えて下さってありがとうございます(^-^)
たたさんの評が秀逸で、似たようなことを繰り返して恐縮ですが、「悲しいだった」のへんてこりんな過去形が、実はまだ過去になりきれていない悲しみの深さを、見事に表現していると思います。
湯呑さんはもうこのフレーズが好きすぎて、悲しいことがあると「悲しいだった」を繰り返してます。主に足の小指をぶつけた時とか。
僕はまたひとりでいます 君の歌 好きだったけど今も好きです (木村比呂)
この歌は無人島にもっていきたいぐらい(?)大好きな歌です。
「好きだったけど今も好きです」…全財産投げ打って、これを思いつける脳みそにチューンナップしたい。
「好きだったけど」と「今も好きです」の間にドラマが!物語が!ぎゅぎゅっと詰まってる!!
こういうtanka.lzhみたいなのが好きなんですよー。って分かりにくい例えでごめんなさい。
…自分でもこういう「あえておかしい」を作りたい!と思ったけど、私の独力ではやっぱり難しかった。
できた歌は、下の句が有名な言葉遊びのややパクリです。
いま君を引き留めないのが愛だから全速力で止まっています (西村湯呑)
「勝手にカテゴライズ」、(主に私の脳内で)大好評につき第2弾です!
今回は前半と後半が意味的につながっていないのに、ストンと胸に落ちる歌。こういう歌は意外とたくさんあるのですが、一歩間違えばさっぱり意味が分からなくなり、よく湯呑さんがツイッターに投稿してはすべってる歌みたいになるので、作者の力量が問われます。うん自覚はあるよ。
新という手話は花咲くさまに似て旅立つ君は振りかえらない (Tetsu)
「この歌はべつにつながってなくないんじゃね?」といきなりテーマを全否定する(^^; そのぐらいスッと入ってくる歌です。こんな物語を見たことも読んだこともないのに、「旅立つ君」の美しい去り際がありありと浮かんでくる。上の句と下の句の間の語られぬストーリー。これもまた、ふえるわかめ級に物語が凝縮された歌ですね。
新しい石けんに古い石けんをくっつける なにが忘れましょうだ (虫武一俊)
なにが忘れましょうだ!!( ゜д゜)
この、思わず言ってしまった感がイイ。突然フラッシュバックする別れの場面。くっついた石けんが、何とも象徴的です。(そういう意味では前後つながってるんだけど、一読してすぐ分かるものではなくて、シチュエーションを理解するまでにちょっとかかって、じわじわくるのが良いのです)
この後、こらえきれずに石けんを叩きつけるのかもしれません。歯ブラシが1本だけになった、洗面台。
全身にくる会いたいという気持ち山ですという山の迫力 (谷川由里子)
これは「勝手にカテゴライズ(3)考えたら負けの歌」に入れようか迷ったほど、下の句がぶっとんだ歌ですが(谷川さんごめんなさい)、でもなんか全体的にすごく伝わってくる歌です。
「山」は何もしなくてもそこにあるだけでパねぇぐらいに山なわけですが、それぐらいゆるぎない存在感がある人がいるのでしょう。そしてその人に会いたい気持ちもまた、あらゆる障壁をものともしない、「山」のような意思なのでしょう。
「山ですという山の迫力」って、文章的にはなんにも言ってないのですが(谷川さん本当にごめんなさい)、しかし山の圧倒的な質感をこれほど見事に表す言葉もありません。上の句と下の句のつながってない感じも、そのスケールをより際立たせるための、あえての工夫なのでしょう。頭の沸いた歌(谷川さん(ry)のようで、実は考え抜かれた一首だと思います。
…さて。
最後に、またしても無謀に、湯呑さんも「つながってない」に挑戦してみました!
君が去り絵心のないオムライス 心電図だね うん、生きてくね (西村湯呑)
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
うん自覚は(ry
いっしょけんめいいきていきます(;o;)
山田水玉さんのこの歌、あほうっぽく、全ての字をひらがなにする工夫ももちろんだけど、何より「あほう」そのものがイイ!!アホでもあほでもなく、あほう。
アホはただの悪口であるのに対し、あほうはきちんとその人のことを思って諭すための叱り言葉、あるいは自分を指す場合は、自身を未完成と自覚しつつも卑下せず肯定する、ポジティブな言葉なんだなーと思いました。
この歌を読んで、文章的には全然共通点はないのに、なぜか宮沢賢治の「雨ニモマケズ」(の最後の部分)を思い出すのは、私だけでしょうか。
「ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」
どちらも、愚直に生きてゆく決意をまっすぐに語った、とてもきれいな詩だと思います。
山田水玉さんの歌は、じわーっとやさしかったり、切なかったり、クスッと笑えたり、必ず一首の中に光る巧さがあります。すごく勉強してる人なんだろうなー。(文学フリマでお会いして少しだけお話ししたのですが、水玉さんの歌に本格的にハマりだしたのはその後から。またどこかでお会いできますように…)
ページ掲載歌も早々に十首に達し、水面下でまだ増え、すっかり水玉模様の湯呑さんであります。
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さて。ここからは山田水玉さんとはまったく関係のない話ですが。(水玉さんごめんなさい)
前回の更新で、わたくし湯呑がツイッターに投稿している短歌はダメダメだー、的な自虐ネタを書いたわけですが。その後、ある方が「自作の謙遜も度が過ぎるとよくない」とツイートをされているのを読んで、確かにそうだなあ…と、深く深く、反省しました。
(※その方が私のことを言っておられたのか、全然関係なくたまたまだったのかは不明なのですが、どちらにせよ私にはドンピシャでした)
私の歌だって(たまーにですが)誰かが「お気に入り」にしてくれることはあるわけで、それをダメダメ呼ばわりすることは、その人たちにとても失礼なことです。神様が聞いたらそりゃもう激怒です。
「だいたいおまえ、自信があるから投稿しとるんちゃうんか!?それともナニか、自分でダメダメだと思ったものを『まあいっかー』って鼻ホジホジしながら投稿しとるんか!?それがもの書きの態度かおんどりゃー!!オラ立てぇ!歯ァくいしばれェ!!」
…と神様にボコボコにされても、クッキーメロンパンですか?ってぐらい顔が腫れあがっても、仕方がない発言だったなあ。そんなふうに、心底から反省しました。
あほうでも、じしんをもっていっしょけんめいかいていきます。それとたまーにどうしても書けなかったり詠めなかったりする時は、無理せずきちんと固まってからアップするようにします。歌以外の自虐ネタは、デフォルト装備なのでこれからもやると思います(^^;が、そんなポジティブサイト(どこが)を、これからもよろしくお願いします。
みんな大好き「うたつかい」が、今号で丸2年、次号で発刊2周年を迎えるそうです!おめでとー!!(≧∀≦)
私のように「うたつかい」後に短歌を始めた人間には、それがあるのが当たり前に思えてしまいますが、それが無かった時代、せいぜいブログぐらいしか作品発表の場をもたなかった草の根歌人さんたちは、きっとひどく孤独だったでしょう。自分の歌が初めて活字になった時、みんなみんな、すごくうれしかったと思います。
どうかどうかこれからも、編集部の皆さんが本当に魔女ばーさん魔法使いじーさんになるぐらいまで、うたつかいがずーーーーっと続きますように!!
えっと、掲載歌について書きます。(あやうく上記でおわりかけた)
もうただのジャングルジムになりたいと眠たげな春の東京タワー (柳原恵津子さん)
東京タワーかわいい(^-^) 日本一の高層建築の座を奪われたり奪い返したりしてきた彼(?)も、スカイツリーに跡を譲って、ようやく重圧から解放されました。そんなかんじのほのぼの感。
なんか、東京タワーのことを言いながら、定年退職したお父さんを詠んでいるような気がするのは私の年代ゆえでしょうか。良くも悪くも、これまでの時代の象徴であった、東京タワー。
青葉陰に影をかさねる淡さしてあなたのうちにあれぼくのばしょ (潤さん)
これはもうフィーリングで選んだとしかいいようがない(^^; スイマセン具体的な解説はできません。でもこの優しい感じ!純愛な感じ!わかるでしょ!!(*ムチャ振り)
思ったんですけど、この歌は俳句っぽい。(「青葉陰」が季語?)
俳句は季語を要(かなめ)にして、そのものにまつわるイメージだけで自分の心情を表現していくものが多く、字数が少ないぶん、短歌よりもイメージ勝負、フィーリング勝負となる気がします。(※湯呑の勝手な持論です)
この歌はその意味で、俳句っぽい。あるいは、詩っぽい。その種の能力があんまりない散文歌人・湯呑さんには、こういう俳句っぽい能力を併せ持つ人がうらやましいです。
短歌と俳句って、全然違うものですよね。「抱いて」と「どいて」ぐらい、違う。
(あ、作れなくても俳句読むのは好きです。最近「僕らの17-ON!」にハマった)
梅雨空をはがせばきっと待っている泡立てすぎた夏の計画 (高松紗都子さん)
「泡立てすぎた夏の計画」!!いいなあこのワクワク感。泡立てた卵白から入道雲を連想していると思われますが、ぐりぐりぐりぐり泡立てまくる、待ちきれない感が何とも楽しい歌です。
もう前の晩からゴーグルつけて畳の上でバタバタしてた少年時代。あの高揚がよみがえりますね。
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前に少し書きましたが、今回、7月号の製本作業をちょこっとだけお手伝いさせて頂きました。
さくらこ編集長邸にて、さくらこさんこはぎさん牛さんじゃこさんたたさんむしたけさん檀可南子さんまひろさんちょろ玉さんという豪華メンバーと。楽しかったー。
作業後にできたてうたつかいの読書会をしたのですが、これがまた!このメンバーで読書会ってすっごい贅沢!至福の時間でした(^-^)
(私は安定のアワワアワワっぷりを発揮して、後の人がしゃべりやすい雰囲気づくりに絶大な貢献を果たしました!私とこはぎさん以外みんな歌会歴戦の猛者っていう事実は全力でスルー!)
また機会があれば、ぜひ行きたいなー。みんなありがとうー!!
あまりにもあっという間の一日で新幹線の名前にしたい (西村湯呑)
こんばんは。花火職人って呼ばれている気がする西村湯呑です。なんとなく。
さて、「勝手にカテゴライズ」待望の第3弾は、いずれも読んだ瞬間盛大に吹いた歌。
もーなんなんだろうね、この人たちは(^^;
それでは、いつも通り、一首ずつ私なりの解釈を書いていきましょうね。
・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。
できねーよ!書けねーよ! じゃあおまえがやれよ!! (逆ギレ)
このカテゴリーでノミネートされた歌だもの、意味が分かるわけがありませんでした(^^;
勢いだけでここまでつっぱしる熟練の腕、そこにシビれる、あこがれる!!ということで…。
(作者様:もし何か深遠な意味があるようでしたら土下座しますm(_ _)m)
…え、湯呑さんもなんか作ったのって?
いやいやいやこれはムリすよ!作れねーよ!じゃあおま(ry
フンボルトペンギンもっとふんばれと傘投げ捨てて走る夕立ち (西村湯呑)
(精一杯がんばりました…)
われわれ三十代、ビックリマンに熱狂した世代の心をえぐる一首。
ロッテのビックリマンシールのパチモンとして、当時、社会問題にまでなった「ロッチ」の「ドッキリマンシール」。
今はもう、その堂々としたパクリっぷりが笑い話のネタになる懐かしい思い出ですが、当時「ロッチ」は子どもたちにとって憎むべきニセモノで、「本物とニセモノの区別がつかない間抜け」の代名詞となるほどに、一世を風靡したパチ中のパチでした。(ヤングな皆さんは某お笑いコンビのことかと思っただろうな…ヤングて…)
えっと。この歌は、そういう世代ネタを題材にしてはいますが、でもけっしてただの80年代あるあるネタではなく、ここでの「ロッチ」「ビックリマンシール」は、一種の比喩だと思います。
信じていたものが実は無価値なニセモノだったなんて、大人の世界にもよくあること。この歌は「あなたがいま熱狂しているそれは、本当に価値あるものですか?」という、何らかの自戒を込めた問いかけの歌でしょう。
でも、ここからは湯呑の読みすぎかもしれませんが、一方でこうも言っているように思います。
「何に価値があるかなんて、本当のところは誰も分からない。キラキラのシールに憧れたあの頃、純粋に憧れるものがあったあの頃は、幸せでしたね」
あの頃のビックリマンな子どもたちは今、人生のビックリマンを見つけたり、いまだ見つからなかったり、見つかったと思ったらロッチだったり、色々です。私個人の中でも色々です。(えっ)
ビックリマンの思い出を軸にして、何かに夢中になりすぎて生活に支障をきたしている人も、逆に憧れるものが何もない寂しい大人も、それぞれに何らかの思いが胸をよぎるでしょう。深い深い一首だと思います。