「空き家歌会」のこと。

◇2013.05.27◇

【 第4回空き家歌会 お題「肉」 詠草紹介 その1 】
A  生活に関係のないひとだから一緒に食べるお肉がまずい
(奈良絵里子)
B  鉄製の大蛇が私を飲み込んで今日も社会の肉になります
(こゆま)
C  金出して太ったのちに金出して痩せようというやつだお前は
(福島多喜)
D  魚肉ソーセージをギョニーと呼ぶことを君と暮らした証にします
(西村湯呑)
E  ステーキにハエが三匹群がっているからこれは美味い肉だよ
(まひろ)

あ き や に い っ た よ  (≧∀≦)  (「のぞみにのったよ」風に)

私の中で長らく聖地であった、大阪某所の「空き家」。
関西ツイッター歌人の心の拠り所・「空き家」で開かれる「空き家歌会」は、毎回もうそれはそれは楽しげで(動画配信中)、いつか参加してみたいとずっと思っていました。
そしてこの度、長年の夢が叶って、5/25の第4回「空き家歌会」に参加させて頂きました!至福の時間を過ごさせて頂いた記念に、今回から1回5首ずつの3回シリーズで、歌会の詠草を紹介しつつ、当日の様子も含めて語っていこうと思います!

A  生活に関係のないひとだから一緒に食べるお肉がまずい  (奈良絵里子さん)

あふれる気まずい感。うんうんよく分かる。
でも、一生関係のない人なら、もはや完全無視してお肉を味わってもいいのでは?(←鬼畜)
「利害関係がありすぎて、一緒に食べたくないけど断れない人との食事」という歌の方が、気まずさゲージがより上昇するように思いました。
良い点としては、「お肉」の「お」の一文字で、肉が好物であること、好物なのにまずい、というニュアンスを出しているのがすごいと思いました。

B  鉄製の大蛇が私を飲み込んで今日も社会の肉になります  (こゆまさん)

私は「鉄製の大蛇=社会」と解釈していて、チャップリンのモダン・タイムスみたいでちょっと発想がベタかな…なんて思っていたのですが、歌会で他の方の「鉄製の大蛇=通勤電車」という解釈を聞いて、おおお!と目が覚める思いでした。反省。
そしてこの歌、参加者最年少、まだ学生のこゆまさんの歌と聞いてみんなびっくり。その若さでいったいどっからこんなサラリーマンな歌が。こゆまさんといい、後で紹介する安達さんやちょろ玉さんといい、みんな大学生であり私より十歳以上も下なのに、詠む歌がどれも達観というか老成というかなんというかもう、日本の未来は明るいと確信します。(なにその結論)

C  金出して太ったのちに金出して痩せようというやつだお前は  (福島多喜さん)

この歌は言葉通りじゃなくて、諸行無常みたいなスケールの大きいことを言っているような気がして、でもさすがに言い過ぎかと思って歌会中には言わなかったんですが、最後の作者発表の時に、作者・福島多喜さんが「これは個人が太った痩せたの歌ではなくて、社会の比喩です」といったことを言われて、あああああ言っときゃよかったと悔やんだのでした。深い歌です。(今さら)

D  魚肉ソーセージをギョニーと呼ぶことを君と暮らした証にします  (西村湯呑)

某湯呑さんの歌。自歌自解で恐縮ですが、作者はまぎれもないおっさん湯呑でも、一応女性の気持ちになって作った歌でした。でも、歌会で作中主体が男か女かについて意見が分かれた時、スペシャルゲスト・江戸雪さんが「こりゃ男だよ。女はそんなもんソッコー忘れるね」の一言で湯呑の女性幻想をこっぱみじんにして下さったので、江戸雪さんはやっぱり素敵な人だと思いました。(また結論がおかしい)

E  ステーキにハエが三匹群がっているからこれは美味い肉だよ  (まひろさん)

これを歌会に出した作者の勇気に一票を投じようかと思いましたが、やめました。(どないや)
この歌、歌会では「アメリカンジョーク的な軽妙さが面白い歌」という意見が大勢を占める中、湯呑さんは一人思いっきり深読みして、「ハエが群がるぐらいだから美味い肉なのだろうが、ハエのせいでもう食べられないから、美味いという証明は永遠にできない。しかし証明できないことによって、その肉は永遠に『美味い肉』であり続ける」という自分でも何いってんだかわかんない禅問答のような解釈を展開して皆様をボーゼンとさせていました。賛嘆のボーゼンでないことだけは確かです。でも作者・まひろさんに喜んで頂けたので悔いはないです。

それでは、また次回!

◇2013.05.31◇

【 第4回空き家歌会 お題「肉」 詠草紹介 その2 】
F  濡れているナガミヒナゲシに肉はなく胸の火という言葉をおもう
(江戸雪)
G  せつなさは耳から来ると知りながら啜るばかりの焼肉のたれ
(虫武一俊)
H  肉球がないからだろう 生きていくのがこんなにも大変なのは
(檀可南子)
I  椎茸をステーキとして出すやつが三歩うしろで微笑んでいる
(じゃこ)
J  鉄製の箸にはさまれ生肉がダリの時計に擬態していく
(ちょろ玉)

第4回「空き家歌会」詠草紹介、第2弾!長いよー!

F  濡れているナガミヒナゲシに肉はなく胸の火という言葉をおもう  (江戸雪さん)

「この歌は難しくってググりにググって調べたのですが、ナガミヒナゲシは『肉色』と呼ばれるオレンジ色の花で、肉色の花が濡れているのは、涙で頬が濡れているように見える。でもそれは本当の頬じゃなくて血の通わない冷たい花びらで、つまりは嘘泣きというか心のこもらない涙。『胸の火』は嫉妬の炎のことで、炎なのに冷たい炎。『本来熱く、温かくあるべきものなのに、自分の胸はなぜそらぞらしく冷たいのだろう。このナガミヒナゲシのように』という、自分のどうしようもない負の感情を吐露する歌と思いました」

…というようなことを言いたかったのですが。実際はもう最初からわけわかんなくなって多分こんな感じ。

「ググりにググって調べたのですが、ナガミヒナゲシふじゃ肉色ほじゃオレンジふじゃ嫉妬ふじゃふじゃ炎なのに冷たいほじゃほじゃ冷と温るるるるる良い歌でした」 (*怖くてユーストリームは見ていません)

しかも他の方の解釈を聞いてると、どうも「秘めたる情熱」みたいなポジティブな歌であるらしい。るるるるる。
どうしても難解な歌ですが、しかし意味よりも前に、初見の時の「胸の火」という言葉のインパクトが強烈でした。歌会の歌じゃなくても、きっと同じようにググりにググっていたでしょう。それだけ力がある歌だと思いました。


G  せつなさは耳から来ると知りながら啜るばかりの焼肉のたれ  (虫武一俊さん)

これもまた他の方々と私の解釈が大きく違った歌でした。

皆さん「焼肉のたれを啜る貧乏学生。そんなことをしたらズルズル啜る音でみじめな気持ちになると分かっているけど、でもそれしかないからズルズル啜る」

湯呑「何かつらいことがあって、ある種の音を聴くと切なくなってしまう。耳をふさげば切なさから逃れられるけれど、切なさを受け止めていたい自分もいて、耳はふさがない。でもそのままでは狂ってしまうから、辛い焼肉のたれを啜ることで、無理やり正気を保っている。そういう鬼気迫る歌」

ただ、言ってる途中で思ったのですが、私の解釈なら、焼肉のたれ程度の辛さではいかにも中途半端。
タバスコ啜るぐらいじゃないと。(死ぬよ)
ここはやはり皆さんの解釈で、「生きるために生きなきゃならない時もあるよね」というような意味が妥当かと思います。色々考えさせられる歌でした。


H  肉球がないからだろう 生きていくのがこんなにも大変なのは  (檀可南子さん)

猫好きの皆様に大人気だった歌。
「肉球」について、私は外圧からのクッションとか、「かわいがられ要素、愛され要素」の比喩、社会でうまくやってくスキル…みたいにとったのですが、どなたかが言った「自分の手に肉球があったら、ふにふに触って癒されたい」という意見が絶大な支持を集めたのにびっくりしました。 肉球ってそんなに強力な癒しグッズなのか。猫を飼ったことのない私にはカルチャーショック(?)でした。猫いらないから肉球だけ下さい。←最低


I  椎茸をステーキとして出すやつが三歩うしろで微笑んでいる  (じゃこさん)

この歌、今回の詠草で一番好きでした!
「三歩うしろで」という表現から微笑んでいるのは妻、したがって主体は夫となるわけですが、夫の後ろに控えて従順なふうを装いながら、時には椎茸をステーキと称して有無を言わせない強さを持つ妻と、そんな妻を「やつ」と呼んで「もーウチのやつときたらやんなっちゃうよね」な感じを出しつつも、内心ではものすごく頼りにしている虚勢張り屋で気の優しい夫。二人の一筋縄ではいかない関係性がギュッと凝縮された、ストーリーを色々想像できる秀歌と思いました。(単に夫が妻の仕打ちに腹を立てている歌にも読めなくはないですが、それだとこういう表現にならない気がします。字間からにじみ出る信頼と愛情…)

それにしても、作者発表でこれがじゃこさんの歌と聞いてぶったまげました。まさかの女性作者による男性視点とは。常に僕らの予想のななめ上をいくじゃこ師匠です。


J  鉄製の箸にはさまれ生肉がダリの時計に擬態していく   (ちょろ玉さん)

この歌はナガミヒナゲシよりも分からなくて、ついに自力では意味がとれませんでした。
歌会でどなたが言ったか、「皆で焼肉をしていたら、ふと肉がダリの時計に思えた。その場で話しても、誰にも理解してもらえないだろう自分だけの幻想を、歌にしてみた」という解釈が、自分の中ですごく腑に落ちました。
誰にでもそういうマイ幻想みたいなものはあって、日常では口に出せないそれを短歌で表現するっていうのは確かにあると思います。

歌会で、私は「『擬態』という語は、『肉が食べられたくなくてダリの時計に化ける』というような意味になってしまうので適切ではないのでは?」という意見を、昆虫の生態が云々とかいってけっこう長々しゃべったのですが、その後に江戸雪さんが、「『擬態』では能動的になるのよね」とたった一言で要約されたのがカッコよすぎて鼻血が出そうでした。

あと、じゃこさんが「ダリの時計知ってることが前提の歌か!博識臭がする!」って言ってたのが面白くて、かつ一理あると思いました。
ただ私個人的には、歌を読んで以来、往年のCMソング「ダ〜リてる♪ ダ〜リてる♪ダリちゃったらゼナ!ゼナ!」が頭に鳴り響いていたので、「ダリの時計」はどちらかというとコミカルなネタっぽいイメージでした。でも、歌会の最中に「ゼナ!ゼナ!」と歌い出しても誰にも理解されない(どころか救急車呼ばれる)ので言いませんでした。そう、この歌はそういう理解されない小ネタの歌なのだ!オレうまいこと言った!(そうか?)

以上!次回もあの人やこの人の歌が!どうかお楽しみに〜! 

◇2013.06.03◇

【 第4回空き家歌会 お題「肉」 詠草紹介 その3 】
K  さみどりの巨峰はかたくやわらかく色づくためにふれあう果肉
(香村かな)
L  夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街
(安達洸介)
M  ここはヒレここはロースとわたくしのからだでたとへばなしするひと
(龍翔)
N  十年で肥った君の体積が 世界に増えて嬉しく思う
(山猫)
O  肉牛が肉骨粉を食うように罪深くしかしそれでも生きよ
(牛隆佑)

第4回「空き家歌会」詠草紹介、第3弾!ななななな長いよー!

K  さみどりの巨峰はかたくやわらかく色づくためにふれあう果肉  (香村かなさん)

福島多喜さんが水を得た魚のようにAT読みを展開していた歌。
ATって何ぞや?については、ムッツリスケベ西日本代表の湯呑には説明できないので以下をご参照下さい。

・福島多喜さんブログ「恋愛中毒
・倉野いちさんブログ「LTBS」      お二人ともご紹介ありがとうございますm(_ _)m

で、わたくし湯呑なりの感想…いや、批評ですが。
ATとまではいかなくても、確かに思春期の少年少女の純粋かつ危なっかしい感じがイメージされる歌でした。
歌会では、「かたくやわらかく」が意味的に連続しないのにくっついているのはどうか、ということや、巨峰の実同士なら、ふれあうのは「果肉」ではなく「皮」だろう…という点が指摘されており、それは私もひっかかった点でしたが、しかしそうしたことはさておき、巨峰の一粒一粒を少年少女に見立てるという発想はすごいと思いました。例えば、巨峰の一房を中学校の一クラスに見立てたら、みんな薄皮に包まれているだけの危うい弱さでありながら、おずおずとふれあうことで少しずつ成長し、きれいに色づいていく…というイメージにぴったりと思います。

あと、歌会では「巨峰」という固有名詞よりも単に「ぶどう」の方がよいのでは?という意見が出ていましたが、私は「巨峰」の方が字面的にたわわたわわ感(?)があって、粒々たちの最終目標という感じで良いと思いました。巨○!たわわ!みたいな!(←ムッツリがんばった)


L  夏痩せた身体は風にはこばれて鳥居をくぐれば新しい街  (安達洸介さん)

これは一読して安達さんの歌と確信しました(^-^)
短歌の題材として、社会や人間関係を詠む人が圧倒的に多い中で、安達さんの、自然と一個の人間との関わりの中でふと見つけた美しさ、温かさを描いていく手法(「自然詠」ともまた違う)は独特のオーラを放っており、最近の大注目です。
歌会でも言いましたが、「鳥居をくぐれば新しい街」は実際に新しい街にたどり着いたのではなく、夏風に吹かれて鳥居をくぐれば、いつもの街が新しい街になる、という一種の呪術のように読みました。物理的には何も変わっていないけど、そこは昨日までとは違う街。心機一転のすがすがしさが、とても心地よい歌です。
(うう、何もボケられなかった…多喜さんの気持ちが分かる…)


M  ここはヒレここはロースとわたくしのからだでたとへばなしするひと  (龍翔さん)

「歌会には魔物がおるのぢゃ…」(村の長老風)。
知らぬとはいえ、かねてより大尊敬かつ大ファンである龍翔さんのお歌に、「今いくよくるよの漫才みたいで既視感がある。ベタだ」などと超上から目線でコメントしてしまうとは…八十方美人湯呑にあるまじき失態!龍翔さん本当にごめんなさい!!!
本当は、「この歌はコミカルな感じながらも、これを実際にやるなら、特にヒレは局部付近の肉であって(※安達さんによると人間にヒレはないそうですが、牛の部位になぞらえるならば)、よほどの仲でないと指し示せず、主体と『たとへばなしするひと』との親密さ、そして主体がその親密さを誇っていることまで読み取れて、深い歌です」と言うつもりでした。しかし既にどなたかが大筋で言ってしまわれたので触れられず、いくよくるよだけになってしまいました。
今後の反省として、良くないと思う点を挙げたらできる限り良いと思う点も挙げる、良い点は誰かとかぶっても、「それが良いと感じた人が複数いる」ことを示すために少しだけでも触れておくようにしよう…と思いました。龍翔さんごめんなさい!いくよくるよ師匠もごめんなさい!漫才大好きです!


N  十年で肥った君の体積が 世界に増えて嬉しく思う  (山猫さん)

またまたまた皆様と私の解釈が違った歌。ぼく病院行ったほうがいいのかな。
皆さん「君」を「妻」と読んだのですね。私は母がわが子の成長を喜んでいる歌だと思って疑いませんでした。

「『君』が子どもである場合、『肥った』のイメージが悪すぎる」という意見もありましたが、私には田舎のおばあちゃんが久々に孫を見て「おうおう、よう肥えて、大きゅうなって。ありがたいのうナンマンダブナンマンダブ」みたいなイメージで、そんなにデブデブに太ってるんじゃなくて、健康優良児(ふるい…)的な大柄な子どもを想像しました。ああしかしなんでこんなに発想が昭和なんだろう自分。

それともう一つ、「肥った」と「体積が世界に増えて」は同じ意味が重複していてよくない…という意見がありましたが、私はこれは気にならなくて、何で気にならなかったのか後で考えてみるに、(あくまで母子の歌と解釈するならばですが)子どもの成長がうれしくてうれしくて、「大事なことだから二回言いました!」的な親バカ全開な感じで、むしろほほえましかったからかな…と思いました。(わぁどんどんみんなと解釈が乖離していくね!)

そのもう一方の「妻」として読む方の解釈ですが、「結婚十年、自分(夫)という赤の他人との暮らしにストレスを感じることもなく、安らいでいる証としての妻の肥満。喜ぶべきことだ」…これはこれで面白いですね。ポジティブ短歌を提唱するサイトの主としてはやはりこちらでいくべきか。
うーん、でもやっぱり妻は…ゴニョゴニョゴニョ…(全ての女性読者とリアル妻を敵に回しつつある湯呑さん)


O  肉牛が肉骨粉を食うように罪深くしかしそれでも生きよ  (牛隆佑さん)

どうしようもなく生々しい現実をつきつけて、でも最後に一筋の希望というか救いがある。一読して牛隆佑さんだ!!と確信した歌でした。
重いテーマに沿って、「肉骨粉」という字面のおどろおどろしさ、「食べる」ではなく「食う」、リアルさを出す言葉のチョイスがうまいと思いました。

歌会では、安達さんが「肉牛が肉骨粉を食べてたって、それしか与えられてないから選びようがないんだし、いやそもそもカマキリやなんかが共食いしたって、それは生き物として当然のことで、罪深くもなんともない!この例えはおかしい!」と、安達さん前世は何の生き物だったんだろう?という勢いでこの歌を批判していました。
それは確かに、非常に説得力のある意見だったと思います。

うーんしかし、「罪深く」は確かに対象を非難する意味合いだけど、ここでは「どうしようもないけど、悲しいことだよね」といったニュアンスで、時に他人を踏みつけて進まねばならない場面もある人生、それを悲しいと思う気持ちをけっして忘れず、しっかり生きていこう…と私は読みました。
人間以外の生き物は、共食いを悲しいとか思わないかもしれない。でも人間だから、それを悲しいと思えるだけの知恵をもって生まれた人間だから、悲しみを背負い続けて、いつかその原因をなくすことを目指して生きていこう。そんな感じ。
安達さんに対抗するため、もはや解釈を突き抜けてアルゼンチンに出てしまったような強引すぎる読みですが、普段考えないこういう哲学的?なことを恥ずかしがらずに考えられるのも、歌会の良さだと思います。


というわけで、第4回空き家歌会全首紹介でした!
改めまして、どしゃべりな人ばかりでなく控えめな人も意見が言えるように心を砕いていた司会・牛隆佑さん、牛さんのムチャ振りと多喜さんのATフィールドに愚痴りながらも一つ一つの歌を見事に総括していたむしたけ会長、議論が停滞する度に目の覚めるような一言で方向性を作り出す膠着ブレイカー江戸雪さん、素敵な名札ポールとおいしいフルーツを用意してもてなして下さった新妻じゃこさん(かいがいしい!)、そして個性あふれる参加者の皆々様、事前に歌の評を寄せて下さった方々、楽しい時間をありがとうございました!
新しい血を入れながら、常に変化していく空き家歌会。今後もぜひ参加したいですが、参加できなくても、ずっとずっと何らかのかたちで応援していきたいと思います!!